つれづれの記(2007睦月)
♪ 2007,1,9
12月24日に那須高原へ行き、瞑想三昧の日々を送っていたが、1月7日の夜遅く帰宅した。
静寂と至福の15日
間はあっという間に過ぎ去り、帰宅後は、例によってメールの返信に追われている。
那須高原の冬は寒いと聞いていたので、防寒対策は万全を期したつもりだったが、滞在中は地元の人が首をかしげるくらい暖かい日が続き、積雪が一度、みぞれ
まじりの日が一度という程度だった。
27日だったと思うが、午後1時頃から北東の空一杯に大きな虹が現われ、3時間以上にわたって美しい形が持続していたのは驚きだった。
♪ 2007,1,17
今日は阪神大震災の発生した日で、あれから満12年が経過した。
1,995年1月17日早朝、淡路島北部を震源として発生した直下型地震は、福島県小名浜から佐世保・鹿児島までを震撼させ、死者6,400名超、家屋全半壊約25万棟(約64万世帯)、一部損壊は3府県で約64万棟に及んだ。
当時阪神間では、至るところで瓦礫の山と、青いビニールシートが見られたが、今はすっ
かり姿を消した。しかし、当時の爪あとは完全には消えていない。
被災者が入居する兵庫県の公営住宅で、1人ひっそりと死亡した孤独死者が昨年だけで58人。これとは別に、孤独に耐えかねて自殺した人が8人に上る。しか
も、死亡後31日以上経過して発見されたのが5人、1人は約3ヶ月後だったという。このような悲劇が、毎年繰り返されているのだ。
地震当時、私は2ヶ月前に59歳を迎えたばかり、あと10ヶ月で定年退職という時期だった。
定年後は、自宅の応接間を改装して小さなヒーリング・サロンを開きたいと、30種以上のヒーリングを学んだことは本にも書いた。ヒーリング・ベッドをアメ
リカから輸入し、霊気療法を中心に幾つかの技法をミックスして自分なりのスタイルを構築していたが、この目論見は震災によって見事に打ち砕かれてしまっ
た。
2階で寝ていた私は、洋服箪笥がガードしてくれて助かり、階下にいた家内も、食器戸棚と食卓の間で辛うじて救われた。しかし家具類の損壊は惨憺たるもの
で、とくにショックだったのは、定年後にヒーリング・サロンを開業するため準備していた医療器具や備品類が、狙い撃ちされたように完全に破壊されたこと
だった。
私は現在、最初に計画していたヒーリング・サロンの運営ではなく、現代霊気法を伝えることをメインとしている。
そのため、「セミナーを開催するだけで、ヒーリング経験を持っていない」
と思っている人も多いようだ。とんでもない、私はヒーリングが好きで数多くのヒーリングを学び、プロのヒーラーを志して毎日ヒーリングを実践し、ヒーリン
グ・サロンの開業準備までしていたのだ。
震災の1年3ヶ月前に、臼井霊気療法学会第6代会長の小山君子先生と出会い、会員にして頂いてはいたが、当時はそれほど価値のあることとは思っていなかった。しかし、手当療法には興味があって、ヒーリングにのめりこんでいた。
現代霊気法のシステムは完成したが、自分が実践するためにつくり上げたもので、他に伝えるつもりはなかった。
やがて定年を迎え、求められるままに、自然な形で現代霊気法の伝授に関わることになった。
本を書いたのがきっかけで、臼井先生や臼井霊気療法の真実を 海外のマスターたちに伝える役割りを担うことになり、なにか大きな意思が働いているのを感じている。
このような経緯を通じて、ヒーリング一辺倒だった私が、「臼井霊気療法は、 “手当を実践して、健康に役立てること”
が入口であり、“精神性向上に努めて、大安心の境地に到達すること” が真の目的である」
と、実感とともにお伝えするようになった。それまでの私は大震災で消滅し、新しい私が誕生したと感じている。短気ですぐにカッとなり、その内側で大きな不
安を抱えていた私が、怒りや恐れから離れることが出来たのも、霊気の恩恵に他ならない。
♪ 2007,1,19
集中瞑想から帰宅して以来、何かと多忙な日々が続いているが、どこにいても朝夕の瞑想は欠かせなくなった。
とにかく瞑想が楽しくて仕方がない。思えば那須高原での15日間は、「努力しない、無理をしない、頑張らない、我慢しない、何もしない」 「楽に、無邪気に、心地よく、自然のままに」
ということの繰り返しだった。これで心が喜ばない筈がない。心を制約するものがなくなれば、心は自ら宇宙意識と一体化する。それが心の本質だからだ。
他の人のことは知らないが、私にとっては実り多い2週間だった。
現代霊気ヒーリング協会